◆5歳で親の目を盗み、パイン缶を使いガスコンロを使いご飯を炊く・・・
美味しい食事を作ることの楽しみを覚えコックさんに憧れる幼少期。
◆朝4時前に懐中電灯1つで真っ暗な山で毎日を過ごす中学時代・・・
春と秋には山に入り山菜採りガが日課となり朝4時前に懐中電灯1つで真っ暗な山に入りキノコなどを採取し山を下り学校へ行く毎日を過ごすハードな思春期でしたが、自然の厳しさ、農作物作りの難しさの経験から、食の関心・ありがたみと共に食の探求心を深めていく。
◆実家の田圃を8反ほど田植えから稲刈りまで管理することに・・・
地域の環境・伝統・支え合う人々によって育まれる自然の恵み、また、その自然の恵みを使った美味しい料理が多くの人々に笑顔や喜びをもたらす興味や経験により、自身の目標が食品関係に従事したいと模索する日々を過ごす。
◆食の専門学校へ・・・
大阪あべの辻調理師学校で学ぶ。卒業展示会では賞を受賞、海外留学にもチャレンジしたかったがお金が無く諦めるも、青春時代の国内旅巡りでは、各地の特産品やグルメとの出会い、また、旅先の宿で出会った郷土料理や食に従事する仲間との貴重な出会いを得る。
◆名古屋にある料理旅館に入社・・・
有名な料理長の元で食材を見極める目を作る。美味しいモノづくりと共に、おもてなし、マナー、思い出づくりとなる楽しい食の時間の提供などなど、食に従事する者として重要な責務を学び、飲食マネジメントの経験を重ねる。
◆山の中のリゾートホテルの総料理長として勤めることに・・・
料理人として5年の経験を積んだところで、山の中のリゾートホテルの総料理長として勤める機会を得る。草からジビエなどの食材を味覚をはじめ五感で食材と向き合うことの楽しさ、難しさ、興味深い充実した時間の思い出が蘇ります。食材選び、仕入れ物流体制の選定・管理、生産者様・流通業者様との交流、お得意様へのプレゼンテーション、イベント企画など、ホテル業では、飲食部門だけにおいても多くの人や企業が連携の元で運営が成り立っており、パートナーシップ体制、マネジメント体制について多くの仲間と共にプロジェクトをこなしてきました。
◆その後、ホテルを経営することになりホテル社長となる・・・
飲食店経営に手を出すがバブル崩壊の波に。時代や流行に応じた先を見る経営マネジメント力が飲食店経営やホテル業飲食部門においてももちろんのことと痛感する。
◆55店舗になった会社の店舗マネージャーに・・・
その当時2店舗しかないうどん店に入社。10年の間に55店舗になった会社の店舗マネージャーに従事。多店舗経営、フランチャイズ運営マネジメント運営の経験を得る。
◆惣菜会社・漬物の商品開発プロジェクト・・・
出張料理のサービス部門の立ち上げプロジェクトの中で交流のあった惣菜製造会社のヘッドハンティングにより漬物商品開発に着手。添加物を使用しない商品や、地域食材の加工、古来より行われた食品加工の再現などを行う。
◆唐揚げ専門店の開業・・・
名古屋で唐揚げ専門店を立ち上げる。からあげ戦争と呼ばれる、テイクアウト乱立と叫ばれる2年前にオープンし、ヤフーニュースTOP、ミクシーニュースTOP、ウエイ-ポーニュースTOPにより開店1週間で2坪の店に1日300人ほど来る店を運営。
◆宮古島の特産物カツオとの出会い・・・
そしてカツオとの出会い、宮古島との出会い。唐揚げ店運営と並行しながら、ソースの試作を2年、島唐食品の前身を作り上げ、惣菜、弁当、PB商品をリリース。ブランディングコンセプトをアメリカにターゲットにしスタート。ソースの開発費や営業活動費のの捻出に苦戦しながら火の車の勢いで奮闘しながら、試作完成より2年でアメリカテスト輸出にたどり着く。原料を全国で探して20年、宮古島の鰹を偶然発見、宮古島に移り住み製造しました。沖縄県は全国でも有数の鰹漁港でした。鰹の需要は年々下がり漁港の活気もかつてほどの賑わいは取り戻せていない状況。「このたれで漁港の活性化の一部になれないだろうか」数年の試作期間を得て完成、閃きの販売計画を立て、やったこともない米国販売を先に進めました。ボトルをガラス製にしたり、内容の英訳、FDAの認証等々、大変を通り越した先に米国が見えました。日本でも多く販売し、地域活性の一助になりたい。
◆宮古島のたくさんの美味を国内はもちろん海外にもお届けする仲間とともに・・・
次章へ続く。
1967年2月生まれ
島唐食品 代表 中嶋哲也
ご一読いただき誠にありがとうございました。